多くの日本人が特別な感慨を抱く戦艦大和と武蔵!
戦前に作られた、傑作と言われた戦艦はいったいどのようにしてつくられたのか?
そしてそれは、現代の日本の産業にどのような影響をもたらしたのかを探ってみます。
■世界最大の46センチ砲
大和型戦艦が搭載した46センチ三連装主砲は、戦艦搭載の艦砲として現在に至る
まで最大であり、装甲は46センチ砲弾を受けても耐え得る強靭性を誇りました。
大和と武蔵が「史上最大・最強の戦艦」であることは紛れもない事実です。

大和型戦艦が搭載した46センチ砲は、艦載砲としては史上最大の威力を持ち、
射距離3万メートルで420ミリの装甲板を貫通することができました。照準
システムには、当時としては最高のハイテクが注ぎ込まれ、世界最大の15
メートル測距儀で目標との距離を正確に測定、目標の予測進路や気圧、気温、
風速、風向といった気象情報、地球の自転で生じる誤差などの数値を「九八式
射撃盤改一」と呼ばれるアナログ計算機に入力し、各砲の照準に必要な方位や
仰角をはじき出しました。
さらに、前部艦橋最上部にある射撃指揮所に設置された「九八式方位盤照準装置」
と呼ばれる射撃統制システムが、計算機から送られてきたデータを基に砲撃を一括
コントロールし、9門の主砲の砲弾を同一目標に撃ち込むことができました。
■欧米から学んだ技術とは
実は当時の日本の基礎技術力はとても低かったのです。
この時代、日本の基礎技術が世界をリードしていることはほとんど皆無で、艦船の
世界でも、航空機の世界でも同様に、英国やドイツ、あるいは米国の基礎研究成果
を必死に理解しコピーしようとした痕跡が至る所に見られるのだそうです。
日本が基礎技術で世界と競争できるようになったのは戦後になってからのことです。
しかし、基礎研究の水準が低かったにもかかわらず、最終製品に比較優位があった
のは、総合化技術としての設計力が優れていたからである。設計力を支えたのは
技術によりビジネスを創造するMOT(マネジメント・オブ・テクノロジー)と、
プロジェクトマネジメントの力によるものです。
世の中にあるすべての製品には、数多くの要素技術が詰め込まれています。しかし
どんなに優れた要素技術を持っていても、様々な要素技術をまとめ上げる総合化
の力が低くてはろくな製品を生み出せません。
戦前の日本の軍事技術の世界では、低水準の要素技術を総合化の力が補っていた
と言えます。
当時は、要素技術は「育てる」というよりも、外部から調達すべきものと考えられ
ており、それが成長の速度を早める戦略の1つであったと言えます。
しかしながらあの時代,これだけ巨大で精緻な建造物が短納期,低コスト,高品質
高性能を満たして造られことは,技術的に特筆すべきことだと思います。使われた
のは,手回し計算機とそろばん,そして計算尺。あとは大きな製図板が用意されて
いただけというから驚きです。
■現場の「カイゼン」で問題解決
製造技術においても新規性は数多くあります。例えば,溶接採用の大型構造物として
は世界初であることです。特に舷げんそく側に厚さ410mmの鋼板を採用したことや
それを支えた曲げ加工と溶接の精度は今でもその類を見ません。
船の基本性能である推進効率の向上にはこの美しい舷側が貢献しているのです。
このことを溶接工たちも十分理解しており、乗組員の士気はこの美しい舷側によって
大きく高揚したもいわれています。
日本の技術者は新しい技術に接すると必ずそれを自らのものにしてしまうだけで
なく、それに独自の工夫を加えてさらに新しい一段上の技術にしていったことです。
そうした現場のカイゼンによって目的を達成させる力があったのは少なくともアジア
では日本だけです。
たとえば中国は日本の江戸時代の頃からヨーロッパに留学生を派遣したりして技術の
導入を図っていますけれど、まったく自家薬籠中の物にはできていない。これは
職人の実質的地位、周囲の職人に対する敬意の念の違いが彼我に歴然とあったと
いうことでしょう。
設計だけならアメリカもイギリスもできたでしょう。しかし実際に建造する能力は
設計だけならアメリカもイギリスもできたでしょう。しかし実際に建造する能力は
呉の海軍工廠にしかなかったと思います。鉄鋼から大砲をつくり、装甲をつくり、
それを組み立てて一隻の戦艦にするという現場の力が当時の日本にあったのだと
思います。大和はさまざまな日本人の力が結晶した存在です。
■現在の基礎となった生産管理手法
生産管理面でも,大和の建造に使われた部品表による物品集中管理方式は,今でも
十分通用する手法なのです。
大和は呉海軍工廠にて製造され、その生産品質と工程管理を担当したのは、西島
亮二大佐という人物です。
彼は、設計力が世界一のレベルであるだけでは、優秀なプロダクツは生産できない
ということを証明しています。
西島大佐はどのような生産管理を行ったかその代表例として、「西島カーブ」と
呼ばれるツールを考案しました。
西島大佐は3万枚もの設計図を調べさせ,大和に使われるリベット(鉄板を接合する
鋲(びょう))の予定総数が609万72本(実際は615万3030本),溶接の全長が
34万7564メートル(実際は34万3422メートル),水圧試験の区画数は1682と
いう数値を得ました。この3種類の数字をもとに各工場別,各職区別に工数予定曲線
である「西島カーブ」を作成しました。
製造が始まると実際の進捗状況をそのグラフに記入し計画線と比較し、実績と大きな
ズレが発生すると、工期の遅れであったり、前工程からの受け入れ品の品質不良で
あったりするので、早急に作業の修正や改善対応を行うというように管理の見える
化を行いました。
また資材の標準化にも取り組んでいます。
当時日本にはJISの前身となるJESという工業規格がありましたが、一般的では
なくボルト、ナット、金属パイプ等は設計や作業によって仕様がバラバラでした。
当初は倉庫には使われる見込みのない在庫部品が山積みされており、西島はこれ
を標準化し、在庫量の低減と作業の効率化を図り、標準パーツの在庫をリアル
タイムで実数が把握するようにしました。
パソコンのある時代であれば、それほど困難なものではないが、当時は紙と鉛筆
と算盤でこれを実施していました。
「西島カーブ」 にしても 「部品在庫のリアルタイム把握」 にしても、むしろコン
ピュータが普及して以降の方が、より効果的に機能する方式という点で、西島大佐
は時代を30年は先取りしていたといえるでしょう。
戦艦大和と武蔵が今なお多くの人々に知られるのは、吉田満氏の『戦艦大和ノ最期』
を契機に、その悲劇性に注目が集まった側面もあります。しかし、この世界最大
にして最強の戦艦が語りかけるものは、決して「悲劇」だけではありません。
大和型戦艦を造り上げたのは、欧米から取り入れた設計技術、要素技術と日本の古来
から培われてきた「モノづくりの力」はもちろんのこと、日本を守るという想いや
覚悟、そして日本人の魂が凝縮された「結晶」であったのです。