戦艦大和、武蔵などの優れた造船技術の要となったのが、主に日本人が持つ伝統的
な「モノづくりの力」です。
歴史の事実に向き合うことで、当時の人々が置かれていた状況や思いを客観的に
捉えて、初めて現在の状況が理解できると思います。
では、日本人は、なぜ世界最強の戦艦大和、武蔵を生みだすことができたのかを
詳しく見てみましょう?

大和型戦艦の建造で、まず驚かされるのが、「列強に追いつけ、追い越せ」の共通
目標のもと、大正9年(1920)竣工の長門型戦艦によって世界の水準に追いつき、
その15年後には、大和型戦艦を計画するまでに技術力を高めたことです。
これほどの速度で建艦技術の革新を遂げたのは世界で唯一日本だけです。
その理由は、日本の歴史をひも解くことによっていくつかの要因が浮かび上がって
きます。
そこで原動力となったものとして、以下の3つが考えられます。
1.古来から培われてきた、識字率の高さなど「一般人の文化の高さ」
2.徒弟制度で築き上げられた職人による「モノづくりの力」
3.日本人の、何事にも集中し、細部に拘り、妥協しない「匠の精神」
また、20世紀初頭から世界で巻き起こっていた爆発的な技術革新の流れを逃さず
しっかりとそれに乗ったことも大きいと考えられます。エンジンにおいてはレシ
プロからタービン、ボイラーは石炭焚きから重油焚きへと変わる過渡期にあって
日本の技術者は追いつけ、追い越せと懸命に研究開発を行ない、海軍も莫大な開発
予算を計上し、後押ししました。
そして当時の戦争では、敵の軍艦をより遠くから、強力に攻撃できる砲撃力が求め
られていました。「戦艦」は軍艦の中でも特に大型で、大きな砲を積んでいるもの
を指します。
強力な砲を搭載した戦艦は、国の威信の象徴であり、また、技術力・工業力の高さ
の指標ともなっていました。
日清戦争、日露戦争に勝利しアジアで唯一先進工業国の仲間入りした日本は、その
ころの仮想敵国は、アメリカソ連などの列強国であり、特にアメリカとどのように
対抗するかが大きな課題でした。アメリカは資源が豊富で、かつ日本よりもはるか
に高い工業生産力を持っていたため、日本海軍は、物量で勝負するのは不利でした。
そのため、アメリカの戦艦の大砲が届かない距離から、強力な大砲を撃つことの
できる戦艦を開発し、数は少なくても艦の「質」を高めることでアメリカと対抗
しようと考えたのです。
その点日本は、有利な点が一つありました。
それはアメリカの軍艦は大西洋と太平洋で共に使えるようにする必要があり、それ
には、パナマ運河を使用しなければなりません。南米大陸を回り込む航路は、
パナマ運河を通るよりもおよそ2万km余計に航海する必要があり、多くの時間と
労力、燃料を消費することになります。
ところがパナマ運河を通れるようにするためには、軍艦の幅をパナマ運河の最も
狭い部分である、幅33.5m以下になるように抑える必要があります。
戦艦は大きな砲を積めば積むほど重くなり、その重さを支え、バランスを取るに
は必然的に艦の幅も大きくする必要があります。また、砲の威力が大きくなると、
発射時の反動も大きくなり、発射時に艦をなるべく安定させるためにも幅を大きく
することが必要でした。
それのような理由で、アメリカの戦艦の大砲は40センチが限度でした。
そこで日本海軍は、アメリカよりもさらに大型の大砲を何門も積むことを考え
ました。そして大和には46センチ砲という、それまで主力とされていた40センチ
砲と比べて6センチも口径が大きい大砲を9門(3連装×3基)搭載しています。
その結果、大和の幅は38.9mとなり、世界最大・最強の戦艦を完成させたのです。
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